BUMP OF CHICKENと羽海野チカさんの対談を読んだ。全編全然ついていけない話だった。

表現者という人達、音楽や漫画を作るということをする人たちの対談。

表現って何だろうと思った。

生きることがそのままその人を表現していると思っているけど、そうじゃない類の表現。

表現するために表現した表現。

音楽とか漫画とか映画という、物語や絵や音など全然違うものに変身させて、でも伝えたい事が伝わるように生み出す、創り出す。

藤くんが「これ書いた時こんな風に思っていたのかなとか思ってほしくない」と言っていた。

私がやってしまうことだ。ごめんね。

私が養成講座をやっていて、受講生の人たちに「私の言っていることをただ鵜呑みにしないで、自分事として自分と真剣に向き合ってくれ」と思うのと似た感覚だろうか。

「私が講座で教えたことは全部忘れても構わないから、自分で自分の中から答えを見つけてそれに従って生きてくれ」と思っているのだけど、私がそれをできていないからなんだ。

藤くんの言っている事、藤くんが見つけたものに、とても重要な正解があるからそればかり見たくなってしまうんだけど、っていうかその作業は結局は藤くんじゃなくて私が私を見ているに過ぎないけど。

ちゃんと世界に一人になって自分と向き合っていないってことなのかもしれない。

藤くんを、BUMP OF CHICKENの唄を頼りにしている。

うーん。頼っていいのか。BUMP OF CHICKENの曲の中から私が見つけたものが私にとってのその曲で、それしかできなくて、正解のようなものを見つけたと思っても、自分が人生を歩んでいくうちにその正解のようなものが変わっていく。

なんか、BUMP OF CHICKENの曲をどう解釈したかっていうことをこのブログにつらつらと綴っているのだけれど、それはBUMP OF CHICKENを理解したことにならないし、藤くんを理解したことにもならないし、ただ私が私から私の中にある何かを探しに行って見つけてきたその過程の暴露だ。

曲の歌詞の中にはどうにもこうにもグサッと来ちゃったり泣いちゃって仕方なかったりするところがあるんだけど、それは私が年を重ねると変わることがある。

ギルドなんてまさにそうで、リリースされた若かりし頃は

ギルド

愛されたくて吠えて愛されることに怯えて
逃げ込んだ檻 その隙間から引きずり出してやる

で泣きに泣いていたけれど、起業するちょっと前の28歳くらいの時に会社に行く車の中で久々に歌いながら聞いたときには

ギルド

美しくなんかなくて 優しくも出来なくて
それでも呼吸が続く事は許されるだろうか

で涙が溢れちゃって、運転中だから涙に急ブレーキをかけた。

それ以来、そこで泣いちゃう。

私はもう愛されたくて吠えてないし、愛されることに怯えて檻の中に逃げ込んでもいないんだろうな。愛されるっていうのは超絶難しいことでちっともできやしないと、リリース当時苦しんでいたのだけど、今の私は相当な時間1人で過ごしているから、なんかもうそこにグサッと来ないのかもしれない。

BUMP OF CHICKENに超大事にしてもらっているからもう愛は十分で、受け止めきれないけれど、受け止めきれないなりに、その感謝とかもらった勇気とかを力に変えてできることをやって生きようっていうとりあえずの答えを出せたからかもしれない。

すごい話が脱線したけれど、表現の話ね。

伝えたい事があって、それは気持ちだったり出来事だったり考えだったりすると思うんだけど、それがちゃんと最高の形でちっとも手を抜かずに、まあいっかと思わずに微に入り細を穿つほどに徹底的に表現できるまで、答えを出すことを諦めないっていう、そういうことなんだとこの対談を読んでいて思った。

私はすごい浅はかに表層的に何とも向き合わず、まあいいかの繰り返しで先延ばしし続けて生きているということをまざまざと、これでもかと、自覚させられていて、読むことさえも、さらっと済ませたくなるくらい。これまた私は臆病だ。

やっぱり、80歳まで生きるのを5回くらい繰り返さないと、藤くんが言っている事なんて分かるようにならないんだと思った。

超絶徹底的に他の誰にもできないくらいに向き合って生きるってことをしている人たちにしか、感じられないことがあって、私は微塵もそのような人間ではなくて、お前もう死んじゃえよって思った。

逃げないってどうやるんだろう。

逃げないでいられることや逃げたくないことというのがあって、それ以外のことからは逃げちゃうのかもしれない。

頭の悪すぎる私には、逃げないとはどういうことかさえわからなくなった。表層的に考えれば、先延ばしにしたり手を抜いたりしないできちんと一つ一つに向き合って答えを出して進んでいくことだって思うのだけれど、果たしてそれで逃げていないと言えるのかさえ最早わからない。

私の頭の中はとっても集中力がなくて、今やっている事と違うことを同時に考えたり、複数の考え方や視点を行ったり来たりして、自分を疑ったり大事なことはどこか違うところにある気がするのにそのまま突き進んでしまっている感覚がある。

考えに考えあぐねて出した結論であったとしても、いつも。

特に養成講座の受講生の人と話をする時はその恐怖がすごいある。

相手が自分の言葉のどこにどう反応してどんな結論を出すのか、その結論がその人を前向きにしない類のものだったらどうしようと思って、とんでもないすごい罪悪感で、自分がやっていることが恐ろしくて全部なかったことにして逃げ出したくなる。

他人の人生の責任なんて取りようがないのだから、どうすることもできないのだけど、どうすることもできないのだから、初めから何もしない方がいいというような考えだ。

だけどその一方で、とても素敵な考えや答えを自分の中から見つけてきてくれて、輝いていく人もいて、そう思うと、やめちゃいけないとも思う。

つくづく私は何もできなくて、みんな頼りだと思う。「ごめんね、私が何を言おうとも何をしようとも、全部君次第なんだ」っていう、多分事実。いや、私だけの誤った真実かもしれない。言い訳かもしれない。本当は他人の気持ちも人生も私次第でなんとか、前向きに進めるように、薪をくべ火を燃やし続けられる何かを、私が人の心に植え付けるなんてことが例えばできるのにそれを端から放棄しているのかも、つまりはそれはできないことだと決めつけることによって逃げているのかもしれない。

というような感じで、逃げないとはどういうことなのかわからなくなり、答えを出してもそれを疑い罪悪感で心がぽっかりして、時間やタスクを言い訳にして、確かな答えを宙ぶらりんにして、同じ思考を繰り返し続けている。

頑張らなくちゃ。逃げていないつもりをやらなきゃ。

私の講座を受けているときに自分との信頼関係を構築して自分の心の中から、前向きな思いや力や、薪をくべ火を燃やし続けられる何かを見つけてくれる人を一人でも増やせるように、取り返しのつかない犯罪者になったような罪悪感を感じながら辞めたいと思いながら、試行錯誤して、その人の心にある純粋なその人に向かって、喋ることを続けていこう。

表現の話からまた逸脱したけれど、私は逃げないってことがしたいから、この対談で出てきた人たちの逃げない部分にやけに反応して、自分のことにすり替えて、こんなことを考えた。

BUMP OF CHICKENの曲を聴いてじっくり向き合った時と、結局私から出てくる答えは一緒なんだ。

苦しい。苦しい。逃げたくない、苦しみ。

ゼロ

心に翼をあげて どこへでも逃げろと言った
心は涙を拭いて どこにも逃げないでと言った

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事