
話がしたいよは2018.11.14に、シリウス、Spicaとともにシングルとしてリリースされ、2019.7.10にリリースされたアルバムaurora arcの9曲目に収録された曲。
映画「億男」の主題歌として書き下ろされ、大変珍しくも、主演の佐藤健さんと高橋一生さんも一緒にミュージックステーションに出演して、テレビで生放送で曲を披露したの。
瞬きしないで(嘘、した)食い入るようにPCの画面を見たわ。テレビであっても、テレビの向こうで聞いている人のことを想って演奏する人達ですからね。
話がしたいよはずっと休みなく曲を作り続けた藤くんがすっからかんになって、その状態を曲にしたそう。
ツアーって、ほんと幸せなんです。(中略)自分は音楽家で、それを聴いてくれる人が目の前にいるんだっていう圧倒的な事実を何度も確認できる期間ですから、あれほど幸せな期間はないし、エネルギーもたくさんもらえるんです。でも、そんなツアーのあと、もらったエネルギーを使い果たすほど、ひとりで深~い井戸にずっと潜って、潜って潜って窒息した先のその井戸の底にあったベンチに座ったときの歌がこの曲だから、ツアーのあとの期間が僕にとってはすごいデカかったですね。だから『話がしたいよ』って強烈に思ってたんでしょうし。
CUT2018年11月号より
私は音楽を作って発表してそれを聴いた人の前でライブをする、というようなことをして生きているわけではないし、似たようなこともしていないし、もっと言ってしまえばこんなに自分のすべてをかけて生きていないので、この藤くんのバテてる感というものが想像できない。
CUTの2018年11月号で、この頃のことや話がしたいよについてインタビューで答えているのだけど、それを何度も何度も読んで、インタビューをした渋谷さんの解釈にも助けてもらって、ようやくなんとなくかすかに何かを感じる、くらいになった。
多分、わかっていなくていいの。わかっていなくても何ら支障はないの。私がこの曲を聴いて感じたことや見つけたことが私にとっての「話がしたいよ」で、それがすべてだから。
「この曲と私」という関係性とは別に、私の中に分かりたい気持ちがある、ってだけだから。
ということで、歌詞を見てみよう。
持て余した手を 自分ごとポケットに隠した
バスが来るまでの間の おまけみたいな時間
街が立てる生活の音に 一人にされた
ガムと二人になろう 君の苦手だった味
みんなはいつも通り何かをしている中、自分だけふと何もすることがなくなって、「ガムと」二人になろうと思う。この独りぼっち感。
日中だということが伝わるの。街が生活の音を立てるのは昼間だけじゃないけれど、バスが通るのは昼間だけじゃないけれど。
どうして、自分もポケットに隠す必要があったんだろう。自分だけ何もしていないから?いきなり自分が一人で何もすることのない時間を過ごすことになってしまって、今まで見ないようにしていた「何か」が心を侵食してくる気配を感じたから?
そして思い出す君のこと。 藤くんの「切り取り方」はいつだって本当に秀逸だと思う。
だめだよ、と いいよ、とを 往復する信号機
止まったり動いたり 同じようにしていても他人同士
元気でいるかな
「だめだよ、と いいよ」。
藤くんにこう言われると今後、青信号を見ると「いいよだ!」って言いたくなるよね。この後も出てくるけど、こういう子供向けみたいな言葉遣いをするところが好き。
止まれと行けでも、StopとGoでも、赤と青でも通じるけど、信号の超機械的な色の変化を優しく擬人化する。 信号の優しい忠告と許可に合わせて、止まったり、歩きだしたりする人たちを見ていて、やっぱり思い出す君のこと。
元気でいるかなと思い浮かべる君とは、きっとリスナーのことだと思う。ライブに来てくれた人たちは今どうしてるのかなって。
この瞬間にどんな顔をしていただろう
一体どんな言葉をいくつ見つけただろう
ああ 君がここにいたら 君がここにいたら
話がしたいよ
会いたいよじゃなくて、話がしたいよなんだよね。
You were hereでは会いたいと、愛しいと唄っていた。ライブ直後がYou were here。ライブから時間がたっているのが話がしたいよなのかな。